混沌の騎士団

プレイカオスVol.6

{ケイオロジー} 刃心月華 13
「私」という精神宇宙の核、占星術で太陽と関連付けられた中心は「他」と言う精神宇宙の要素を発生させ混乱と分裂を繰り返す事で、機能する大悪魔コロンゾンは、私達日本人においてなじみある表現において悪霊―強いて言えば自縛霊(Egotical-Baind-Spirit)として知られる自己中心的、灰汁のある、空気が読めない、固い、ホームポイント維持、ホームベース死守という「セルフ」である。そもそもセルフ、ハイアーセルフは非意識の機構として観測される空を彷徨う埃であり、自縛霊の重力によってリアルライズされイメージとして認識される錯覚―という主観的垢のついた妄想に似ている。解りやすく例えるならば
「魔術は心理学ではない(黒の書。魔術の定義より抜粋)」というケイオロジー。
これに私は賛同している。前途で述べたとおり心理学の観点は分析、区分、過程、統計上での結果の範囲で物事を説明する。アーキタイプ即ちユンギアンのセオリズムはあくまでも、そのセオリズムを「信じる努力」を意図しないかぎり構築できない。「非意識」が「集合的非意識」と言う大きなリンクを持っているとし、「民族的集合非意識」がそのどこかに存在するという見方は、「空気」が「大気圏」と「オゾン層」にも存在しているという事を述べているのと同じで、私達の生命は高度30キロ程度で「空気」が「薄かろうが満ち溢れていようが」呼吸することが可能でも「生命維持」に困難になる。
仮にグレートマザーが存在しているならば、それは「自縛霊」のリアライズという重力に汚染された「グレートマザー的な型」に劣化されて具現化されない限り「意識」は認識できない。この認識をフィルターとして考え、QBLに当てはめたとする。天球6調和を自縛霊とし、6から他天球に伸びるパス全ては
重力場である。唯一結びつきの無い天球は10―王国である。
自縛霊が、天球の4―慈悲を経験する為に重力場として6-4の小径を形成する。このパスは「調和+慈悲」のフィルターとして働くのでそこにある意味は
「調和された慈悲」か「慈悲と調和」というものになる。逆に言えば仮に黄色。自縛霊を黄とし、青を認識したいと望んだ場合、6から4へのパスは青と黄を混ぜた色彩とオレンジとなる。アニマを経験したいと望んでもそれは自縛霊が汚染した、高尚な言い方にするならば、アニマをエゴが象徴的に付与した結果としてのアニマ的エゴ。となる。
これが「霊的に美しいか?汚いか?」を論ずれば「美しい汚い」と言う観点ではない。それはカバリストの言う原罪なのだから、生きていれば仕方の無い言で言い換えれば、リアルライズ―自縛霊の重力は人間として定義となる故に、
人間を辞めたいのならば(発狂とも言う)リアルライズ―原罪を贖えばよい。
ということになり、はたしてこれが精神学、心理学の範囲で「人間という社会的存在」として良い事か悪い事か考えてみれば答えは悪いことである。このメカニズムの典型的な都市伝説がアブラメリン魔術の失敗例である。「本当の自分」を1年にわたり召喚する行為は(6ヶ月と言われているが原書を読めば解る。1年である)「どうして本当の自分を本当に1年で召喚できるのか?果たしてその時、本当か偽かは、誰が決定するのか?」という疑問の答えを持っていない。言い換えれば1年かけて偽者の自分を召喚しても「本当自分だ」と固着したならばそれは、当人にとって「本物という偶像」である。
別の観点、先程の「社会的存在」としての私達―罪ある生命が1年かけて清らかな存在-「本当の私」とであった場合、他全ては「穢れた悪」として認識され当然であり、社会的存在を辞める機能を持ち合わせなければならないので、完全な浄化人格は基本的にデスパレードしていく。これをカタルシスとして表現するならば貴方はただの自殺志願者でしかない。
ここまでの前提は全て「西洋人による西洋人の為の西洋思想」である。私達は都合よく物事を忘却する機能を持っている素晴らしい生命である。残念な事に日本人は「西洋思想」を学ぶにあたり西洋言語の取得を必須としている(ILSF169の論考を見よ)し、西洋人の自縛霊と私達日本人の自縛霊の存在の仕方は中心であり。重力場を形成できるという等の基本概念以外、共通項がない。あるとすれば感情の共通化―魔術意識に至るための手段―において重力場より僅かな時間でも離れられた時に辿り着けるだろう無垢を可能性として持っているだけ。感情は思考で捉えることは不可能であるならば、思考は感情を「起爆」させることは出来ないはずだけど、何故か人は思考で感情を喚起できると自負するがこれが「重力場」の影響でありフィルターを通して導引される劣化した力流である。
私の最愛なる主人はこの力流を形成するフィルター5つをカバラ的に説明していた。自縛霊に導かれて引き寄せられる力は。天球7-6のフィルター「エネルギーの倍加」によって天球8-6「制限され調整されたエネルギー」とし天球9-6「集約され削減された力の性質となり」王国に齎されない限り、危険である。解りやすく説明すると、湯船にお湯を満たす。そこに飛び込んだ場合
お湯は浴槽から溢れ飛び散る。これを論理的にか習慣的にか躾なのか?私達は毎回やらない。何故だろうか?それが4-6の「人としての制限される限界」と5-6「人として機能されうる力の倫理」というフィルターである。
では実際、こうした機能制限を外すにはどうしたらよいか?は1-6の捕らえ方に答えがある。
カバラでは1は前の10である。したがって1と言う天球は原因である前に結果で無ければならず、結果だとしたならばそこには原因が存在しなければならない。自縛霊は絶えず天球1を「忘却する」事で結果として経験したり原因として認識している。古典的なカバリストは天球1を白色に例えるが、ケイオロジーでは「光」である。故に白でも黒でもなく同時に全ての色彩を認識させる究極色で無ければならない。1をどう考えどう定義するか?それが神聖な神の意志である、または暗黒の神の呪いであるとするかは、貴方の自縛霊次第である。そして自縛霊の憑依から瞬間でも逃れる為の忘却手段としての魔術意識が必要である。これをオクトラマトンのオクタコンシャスとして論じていく場合、
自縛霊は7つの呪文と7つの魔術によって相殺することが出来るはずである。7つの感情ピーク 喜、怒、哀、楽、快感、恐怖、愛は自縛霊のフィルターを一時的に迂回することが出来る。これら感情は民族間も越えて機能する原因となり結果となる。心理学無しに戦争は引き起こり、心理学の説明無しに国際結婚は成立し、心理学のシフトなしに人類は平和を望んでいる。無論魔術はこれら現象を説明できるはずである。魔術的行動は人類を超え機能している。死ぬ事と生きることは絶えず人類に複雑な哲学を投げかけるその一方で秘教として、哲学範囲を超え宗教を掻い潜り地下潜伏を志す。しかし私達の自縛霊は叡智を行動の中に、ソウルの中に見出そうと修行する。この行為は心理的、科学的、宗教的、芸術的、ありとあらゆる学問から逃れるフリーダムな行為である。心理学が、科学が、芸術が魔術を産物としているわけではなく、魔術がそれらを産物として、魔術が魔術であると論理付けるために重力場に使用しているだけ。
混沌の騎士団は先進国に似たフロンティア精神と同時に、「己の意見に固着せず、了見狭い観念、思想から自由になるケイオロジーを」提唱している。それが技術依存型のセオリーであれ、ハードウェアーとソフトウェアーのセオリーであれ、エコロジカルなセオリーであれ騎士は己の剣を研磨し、その刃の表面に己の姿を映し出す為に行動しているはずである。例えそれが一過性の熱望であれ、永遠の理念なれ、興味から大望への昇華であれ、自縛霊をその剣が滅ぼす時、
混沌の御心を知り、虚無の魔術の理論と技術を生み出す。
勇気と極端な変化のみが、ソウルを偉大にするケイオロジーである。人類初の短い飛行時間は、宇宙旅行を可能とする技術まで進化した。
今、貴方が初の航海を行う。それが僅か数秒の時間であったとしても、継続する事で、近い未来、奇跡と神通力を誇る霊感への熱い跳躍になる。
 以上、乱文をお許しください。